《特別企画》80年代のイージー・リスニングを振り返る

 

 日本の音楽業界、放送業界にも影響を与えた、ピエール・ポルト、リチャード・クレイダーマンについて、当時、ビクター音楽産業(現:JVCビクターケンウッドエンタテインメント)で彼らをプロデュースしていらっしゃった、ワキタ・ミュージック・プランニング社の脇田信彦さんへのインタビューをおこない、当時の裏話を語っていただきました。そして、インタビュー中、ふと気になったジャン・クロード・ボレリーについて調べていくと、こちらも興味深い事実ががわかってきましたので、3部構成でまとめてみました。

Part 1 : ピエール・ポルトとフライデー・ナイト・ファンタジー
Part 3 : もし、ジャン・クロード・ボレリーが日本で成功していたら

Part 2 : クレイダーマンと日本でのプロモーション

 リチャード・クレイダーマンは、彼が所属するフランスのデルフィン・プロダクションとビクターとの契約で販売しているアーティストです。多くの国でユニバーサル系、旧EMI系、ワーナー系、ソニー系(旧RCA系含む)、あるいは独立系などと販売レーベルがコロコロと変わってきている中、日本は1978年のデビュー以来、ずっとVictorレーベルから発売されているという、デルフィン・プロダクションとの間で良好な関係が築けている市場です。それは、日本市場におけるクレイダーマンのプロモーションにおいて、デルフィンとビクターが Win & Win の関係にあるからにほかなりません。本日は、その原点にあたる日本デビューの頃のお話や日本独自企画について振り返ってみようと思います。
 
 脇田さんは1970年2月に日本ビクターの音楽部門に中途採用入社されて以降、ニニ・ロッソを皮切りに、リチャード・クレイダーマンを始めとしたイージー・リスニング系や、スタイリスティックスやヴァン・マッコイのようなソウル系、ロシアのメロディア音源、民族音楽などを幅広く担当されてきました。
 現在は、ご自身が立ち上げたWAKITA MUSIC PLANNINGで、アルフレッド・ハウゼ、フランク・プゥルセル、フランシス・レイなど著名な演奏家の音源をそれぞれの権利会社からライセンスを受け、Amazon Music, Apple iTunes Storeを通じて日本国内市場に向けて配信する事業を展開されています。
 

イージー・リスニングの部屋:松本久仁彦

リチャード・クレイダーマンのデビュー

<松本> 早速ですが、リチャード・クレイダーマンをビクターで発売するようになったきっかけを、お聞かせいただけますでしょうか。

<脇田> デルフィン・プロダクションのプロデューサーであるオリヴィエ・トゥッサンからLPが送られてきたのが最初です。荷物に押されてしまったのだか反ってました。それを試聴室持って行って、先輩の所ディレクターといっしょに聴いたんです。ワウワウと音が震えているやつを。正直よくわからなかったです。ただ、のちにビクターが契約して日本でも「ハロー・ミスター・モンキー」を大ヒットさせた西ドイツのアラベスクというグループとクレイダーマンがヨーロッパのチャートを席巻しているという情報は得てましたから、所さんとふたりで「何かひっかかるものがあるよね」ということで「やってみようか」ということになりました。1977年12月のことです。

「ハロー・ミスター・モンキー」(VIP-2601)はビクターから1978年4月5日に発売。日本のヒットチャートであるオリコンのヒットチャートに48回登場、最高8位。ちなみに、アラベスクでオリコンにチャート・インした曲は15曲にものぼる。右はフランスで発売されたクレイダーマンのデビュー・シングル。オーケストラ伴奏とピアノ・ソロを収録。

<松本> クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」がフランスでヒットして月間チャートで最高13位になったのは1977年の7月から8月にかけてでしたから、脇田さんが耳にされたのは、そのちょっと後のことということになりますね。

<脇田> 実は、オリヴィエ・トゥッサンは最初キングに話を持って行ったのだそうです。キングは同じデルフィンのアーティストであるトランペッターのジャン・クロード・ボレリーを販売している実績があったからです。でも反応がなかったらしいです。反応しなかった本当の理由はキングの当時のディレクターに聴いてみないとわからないですが。まあ、いずれにしても話はビクターに回ってきたわけで、ビクターはラッキーだったと思います。

<松本> フランスでヒット・チャート1位を獲得したくらい爆発的なヒットをしたジャン・クロード・ボレリーでも日本じゃこの程度かぁという現実を見てしまうと、同じプロダクションのアーティストの発売に躊躇してしまったのかもしれませんね。あるいは、何としてでもボレリーで一花咲かせたい、と構っている余裕なかったのかもしれません。

<脇田> 社内会議でGOが出て、1978年5月にシングル盤、6月にアルバムを発売しました。この時、営業のメンバーからもいろいろ意見を聞いたんです。そうしたら「星空のピアニスト」を前面に押して売り出したほうがいい、という声が多かったんですね。ちょっとセンチメンタルな雰囲気の方が日本人好みだろう、ということです。

<松本> ”Lyphard Melodie” に「星空のピアニスト」というニニ・ロッソの「夜空のトランペット」を彷彿とさせる邦題をつけてデビュー曲としたことからも、そのあたりのことが伝わってきます。それでA面を「星空のピアニスト」に、B面を「渚のアデリーヌ」としたシングル盤を最初に発売したわけですね。ところが「渚のアデリーヌ」の人気がじわじわと上がってきた。そこで、規格番号そのままでジャケットだけ差し替えた盤に切り替えたということでしょうか。

リチャード・クレイダーマンのデビュー・シングル(VIP-2607)。同じ規格番号のまま、途中からジャケットを作り直して販売したものが右のもの。オリコンの100位以内には入らなかったものの、コンスタントに売れ続けた。

<脇田> そうなんです。「星空のピアニスト」をA面にしたことは後から考えてみて間違いだったと気付きました。日本だからセンチメンタルな曲の方が好まれるなんて考えず、やはりヨーロッパの人達に認められている作品で日本でも推すべきでした。考えてみればあたりまえで、世界で評価されるものは日本でも評価されるんです。
ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」しかり、ポール・モーリアの「恋はみずいろ」しかりです。そこにディレクターの感性を押しつけちゃダメだ、ということを学びました。そういう意味で、キングがボレリーを売り出すにあたって「渚のトランペット」ではなく、最初から「ドランの微笑」でプロモーションかけていたら違っていたかもしれない、と思います。

<松本> 話はちょっと逸れますが、”Ballade pour Adeline” に ”渚“ と付けたのは、これはどういうインスピレーションだったのでしょうか? ジャン・クロード・ボレリーの日本デビュー曲が「渚のトランペット」で、前年にビクターから発売され大ヒットしたピンクレディの「渚のシンドバッド」にあやかった、ということはないとは思いますが…。

<脇田> 覚えてないですねぇ。

<松本> 話をもとに戻して、「渚のアデリーヌ」の発売後の反響はどうだったのでしょうか。

<脇田> シングル盤の初回プレスは3,000枚だったんですが、レコード店の店頭で流すと次から次へと売れたんです。続々と追加プレスされました。そうしている間に、実はもうひとつ大きな変化が起こっていたんです。TV番組のBGMで盛んに使われるようになったのです。

<松本> 放送局の音効(音響効果)の人は、邦楽、洋楽、ジャンルにこだわらず、常に新しい音楽、いい音楽を探していますからね。クレイダーマンを初めて聞いた音効の人は「これは使える!」と思ったでしょうね。

<脇田> 私はどこの放送局の音効さんとも非常に親密にお付き合いしていました。まだ、私がニニ・ロッソ中心にやっていてた頃、「脇田さん。ニニ・ロッソね。あれ、いいんだけど、映像殺しちゃうんだよね。」よく言われたものです。ニニ・ロッソの演奏は映像が目に浮かぶような表情豊かな演奏をしますから合わせられる映像がどうしても限定されてしまうんですね。それが、クレイダーマンの作品となるとBGMで本当に重宝されました。これはNHKに限らず民放でもそうで、曲が流れると放送局の電話が鳴りまくったといいます。映像の良さは殺さない。でもメロディや弾き方が印象的で映像と共に記憶に残る、そんな相乗効果を生む音楽、ということだと思います。
 NHKといえば、音効さんが仕事している1畳程度の狭い部屋に、音効の室井さんとキングレコードの新井さん(1982年からセブンシーズのレーベルで、イタリアものを中心に手掛けられていらっしゃった)と3人で集まって、あれやこれや話ししていたこともありましたね。そういった話の中から、新しいビジネスのヒント、おもしろい曲の使い方なんて生まれてくるものです。
 NHKでは特に皇室関係の番組でよく使っていただきました。このことが、後に「プリンス・オブ・ライジング・サン」にも関係してくるんですね。

左は19786月に発売されたデビュー・アルバム『星空のピアニスト』。右は197912月に発売された2枚目のアルバム『秋のささやき』。(ジャケット写真はいずれもCD化時のもの)

2年の時を経て本格的なプロモーションが始まる

<松本> クレイダーマンが初来日したのはいつでしょうか。

<脇田> 1980年の2月ですね。この時はコンサートではなくてプロモーション来日です。TV出演で認知度向上を狙ったわけです。

<松本> 最初のシングル盤が出たのが1978年5月ですから、かなり期間が空いてしまいましたね。丸2年近いです。

<脇田> それは、呼ぼうにも日本で発売している作品数が少なかったことが原因です。クレイダーマンは日本よりも先にドイツで大人気となったんです。あとイギリスとかでも。するとドイツのレコード会社がデルフィンに対して「恋はみずいろ」「夜のストレンジャー」といった、ドイツ人に人気のスタンダード曲のレコーディングを求めたんです。
 でも我々は、1枚目に発売したようなオリジナル曲中心のアルバムのリリースを望んでいました。クレイダーマンのイメージがブレるのを恐れたんです。スタンダード曲、つまり誰でもが知っている有名曲なら他のアーティストでもやってますから。少しずつ人気が広がってきているリチャード・クレイダーマンというピアニストのイメージを大切にすることを1番に考えました。だから、オリジナル曲を中心にした作品を録音してくれないと、日本では2枚目、3枚目のアルバムが出せません。当時、ビクターの宣伝課長がパリにあるデルフィンのオフィスに足を運んで、お願いしに行ったくらいです。

<松本> 日本で人気を高めていかなければならない重要な時期に、日本の音楽市場に合わせたプロモーションをきちんと進めていくことが重要と捉えたわけですね。ロックやヴォーカルであればアーティストの個性を前面に強く押し出しだして売り込んでいくことが重要なので、そこさえしっかりしていればファンはついてきてくれますけど、イージー・リスニングの場合は、楽器編成とアレンジや演奏法の個性くらいしか差別化要素がないわけで、そこが明確に聞き手に伝わっていない時期に、誰もが取り上げるようなスタンダード曲をやってしまうと、誰がやってるのかわからなくなって「カーメン・キャバレロとどこが違うの?」という状況に陥ってしまう危険性がありますからね。いつでも本人がテレビに出て演奏を披露できる本国や隣国ならまだしも、日本のファンにとってはレコードが唯一のクレイダーマンとの接点ですから、慎重に動かれたのも当然だと思います。

<脇田> ニニ・ロッソも同じことが言えて、例えばニニが歌っている曲というのがイタリアでは数多く発売されていたのですが、日本ではそのほとんどをリリースしませんでした。日本では、あくまで「ムード・トランペッター」ということで売ってきたからです。イタリアはイタリアでサウンドの流行り廃りがあるわけで、当然ニニも、その流れに乗ってレコーディングしたりすることもあるわけですが、そういった音楽的背景が届きにくい日本では、ファンは戸惑ってしまうんですよね。「好きだったサウンドが変わっちゃった…」「こんなサウンドだったら何もニニじゃなくても…」ってなってしまう危険性があるわけです。

<松本> 海外のレコード会社の資本が入っている日本のレコード会社で、そのレーベルが抱えるアーティストとして日本で発売する場合は本国や親会社からの指示で売っていけばいいのでしょうけど、ビクターの場合はアーティストとの単発契約ですから、日本市場において、そのアーティストをどう育てていくかというのはかなり重要な課題でしょうね。失敗すると契約切られて、それまで積み上げてきた資産全てがパーになりかねないわけですから。

<脇田> そうなんです。まあ、それで2年もかかってしまったわけです。いずれにせよ、やっと3枚目のオリジナル・アルバムが日本に届き、大きなプロモーションを打ちたくても打てない、という歯がゆい状態から開放されました。しかも3枚目のアルバムには来日プロモーションにふさわしい、素晴らしい新曲が収録されていました。「愛しのクリスティーヌ」です。原題は”Souvenirs d'Enfance”「子どもの頃の思い出」ですね。もちろん、そんな雰囲気が伝わってくる曲なんですけど、クレイダーマンの奥さんの名がクリスティーヌだと聞いていましたので思い切ってこのタイトルに変えました。この曲はラジオのBGMに引っ張りだこで、テレビに出演した際にも弾いてもらいました。

<松本> 当時、ラジオのリスナーの方から投稿されたポエムのBGMとかにもよく使われていましたね。クレイダーマンが愛妻への想いをピアノのメロディに託した曲、みたいなロマンティックなイメージがついたことで、さらに人気に火がついたと想います。私が初めてクレイダーマンのアルバムを買ったのは、その曲が入ったベスト盤でした。
実際、来日してもらって、どんなプロモーションがおこなわれたのでしょうか。

左は197912月発売に発売され「愛しのクリスティーヌ」が収録された日本で3枚目のアルバム。右はオリコンチャートに86週(1年以上!)も登場し、最高11位となる超ベストセラーを記録した『ベスト・オブ・リチャード・クレイダーマン(VIP-7294)1980221日発売。

<脇田> まずはNHKです。朝の番組で当時「スタジオ102(いちまるに)」という番組がありました。今「おはよう日本」やってる枠ですね。「8:05からの5〜6分だけどいいかな?ビッグニュース入ってきちゃうと飛んじゃうかもしれないけど」と言われました。8:15から始まる連続テレビ小説(当時は「鮎のうた」)の直前で、特に主婦層なんかは家事を一段落させ注目度が高いスポットです。当日は幸いにも飛ばされることなく、無事にクレイダーマンがピアノを弾く姿が放送されました。そうすると、その直後からNHKの電話が鳴り止まなかったそうです。電話を取るデスクの前には大きな模造紙にビクターの営業部隊がいる新橋事業所の電話番号が書かれていて、そちらを案内したのだそうですが、さすがに8:15頃ではビクターには誰も出社していないですよね。誰もいないオフィスに電話のベルが鳴り響いていたと思います。NHKはこのほか「夜の指定席 魅惑のファンタジー」(1980年2月29日放送)という番組にも出させていただきました。
 
 日本テレビの11PM(イレブン・ピーエム)にも出演しました。生放送です。番組ディレクターにお話したら、最初「なにそれ?」という感じでした。ところが、横から音効の人が「ほら、あの番組でかけたら、あとから電話鳴り止まなかったあの音楽ですよ。」「ああ、あの曲を演奏しているピアニスト?よし、決定!」音効さんの力は絶大です。
 
 そして、TBSの「オーケストラがやってきた」です。まずはテレビマンユニオンという番組制作会社の社長である萩元晴彦さんに聴いてもらいました。萩元さん、聴いたあとちょっと考えて、それから「無個性の中の個性だね。」そんな感想を言われましたね。

 「オーケストラがやってきた」は、全国各地の会館をまわり、30分番組を2本収録するというスタイルで番組をつくっていて、しかもその30分はひとりのアーティストに焦点をあてる、というものでしたから、クレイダーマンもその時4、5曲弾かせてもらったように記憶しています。当日の収録場所は鹿児島県薩摩川内市の会館でした。オリヴィエに報告すると「遠すぎる」と不満を言われましたが仕方ありません、万全な体調で日本に向かいたいからと、クレイダーマンとともにファーストクラスの座席を求められ、羽田から福岡空港行って、そこで九州交響楽団との番組リハーサルをおこない、翌日は、一旦鹿児島空港に飛び車で会場を目指しました。
 
 それからテレビ朝日の朝の番組にも出ましたね。これも音効さんの力です。このように音効さんの口添えでクレイダーマンの露出が増えていったのは、日本だけでなくドイツもフランスも同じだったようです。
 
 さらにここでもうひとつ大きな動きがありました。キョードー東京の内野社長が動いたんです。このプロモーション来日の放送をご覧になっていたようで連絡をもらいました。そして、急遽、7月のコンサートが決まったんです。プロモーションで放送局を回っているオリヴィエ・トゥッサンに会って契約しちゃったんですね。トップ同士直接の交渉だから話早いです。

レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラの公演で販売されたコンサート・プログラムから。
※掲載している電話番号や会員募集の内容は当時のもので、現在では使われておりませんので、ご連絡なさらないでください。

<松本> クレイダーマンのプロモーション来日が終わった直後の3月1日から、レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラの来日公演が始まるのですが、そのコンサート・プログラム(前ページに掲載のもの)に、もう開催の予告が載ってるんですよね。しかもいくつか公演日程まで決まってしまっている。たぶん、作りかけていた原稿破棄して作り直したと思うのですが、当時は今と違って印刷の版下を作るのも手作業でしたから、1週間ほどの短い期間に、よく滑り込めたものだと思います。

<脇田> 最終的に18回公演やって、もちろん全公演「完売御礼」でした。
 そういえば、来日した時に興味深い話を聞きました。クレイダーマンがまだスタジオ・ミュージシャンとして活躍していた1974年頃に、日本人歌手の伴奏でキーボードを弾いた、と言うんですね。その時は名前を思い出してもらえなかったんですが、後で邦楽に詳しい人に調べてもらったところ、沢田研二の「巴里にひとり」じゃないかなと言われました。

沢田研二の「巴里にひとり ”Mon Amour, Je Viens Du Bout Du Monde(恋人よ、僕は世界の果てからやってきた)」はフランス向けに発売され(もちろんフランス語で歌われた)19754月にフランスの月間チャートで15位にまで食い込んだ。ポール・モーリアも日本からリクエストされる前にレコーディングしたほど。当時のフランスは、沢田研二のような長髪イケメン歌手が若い女性の間で大人気だった。その筆頭がフランスで「愛のフィーリング ”Dis-Lui”」をヒットさせたマイク・ブラント(Mike Brant)。確かに雰囲気似てる。

<松本> 1982年に発売された「ニュー・イージー・リスニングの本」のクレイダーマンへのインタビュー記事で「ケンジ・サワダと一緒にスタジオで録音した」と書かれていました。

クレイダーマン・ブームの陰で

<脇田> こうして、次第に広がっていくクレイダーマンの日本での大ブームを受けて、ある日本のレコード会社はクレイダーマンの写真を持って海外まわって「こんな感じのピアニストはいませんか」なんて探し回ったといいます。その後、子どものピアニストとか美人のピアニストとか、各レコード会社からデビューしましたね。

<松本> そうですよね。結局みんな1、2枚程度出して終わってしまいましたし、中にはデビューしますってFM誌(ニュー・イージー・リスニングの本)に紹介されたものの発売されなかった女性ピアニストもいました。そういえば、ジャン・ミッシェル・ド・フランスという指揮者もいましたね。あの人も確かクレイダーマンと同じデルフィン・プロダクションが絡んでいたように記憶していますが。

<脇田> デルフィン・プロダクションのアーティストはビクターが発売権を持っていたので、当時のCBSソニーはデルフィン・プロダクションのオリヴィエ・トゥッサンに「クレイダーマンのような美男子の指揮者を」ということで、別枠で紹介してもらって契約したということです。3枚くらいLP出しましたかね。

クレイダーマンのブームに触発されて、レコード会社は女性受けするような美形のアーティストを探し求め、柳の下のドジョウを狙った。左の『思い出の散歩道/小さなピアノ弾き グザビエ・ダミー』のアルバムは1982年3月25日発売。当時11歳。右のジャン・ミッシェル・ド・フランスのアルバムは3枚目の『秋風のエトランゼ』で1981年12月21日発売のもの。彼の日本デビュー盤は1980年12月21日に発売された『アバの世界』。

<松本> 1981年3月に来日して、フェスティバルホールで大阪フィルハーモニー管弦楽団を指揮してジェットストリームの放送3,000回記念のコンサートをやっていましたね。ステージ上で指揮がまともにできなかったという話が伝わっていますが。

<脇田> CBSソニーさんも、まさかそんなことになるとは思ってなかったと思いますね。

<松本> イージー・リスニングのファンからすると非常に馬鹿にした話だと思います。イージー・リスニングだって他の音楽ジャンルといっしょで、演奏する曲や編曲の良さ、録音、演奏者の技術力…そういったものの総合力なのに、クレイダーマンがウケたのは、100%容姿だと誤解しちゃったのですね。実際、クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」が日本でヒットした頃、一部の音楽家からは「こんなのオレでも弾ける」とか「グノーのアヴェ・マリアのパクリ?」などという言われ方されていましたけど、あれからもう40年以上も活躍しているところを見ても、それだけ人々から愛される、誰にも真似のできないピアニストだという答えが出ているし、それを支えるプロデューサーやバックにつく音楽家たちもいかに優れていたかがわかります。

<脇田> インターネットでクレイダーマンの曲を弾いている映像が上がっているけど、やっぱり違うんですよね。簡単そうに見えて、実は本当に上手く弾くのは難しい。ピアニストのフジコ・ヘミングはクレイダーマンのことを「彼のピアノはエンターテインメントに満ちている」と社交辞令ではなく本当に絶賛していているくらいです。オーチャード・ホールのコンサートには必ず来てましたし、フランスでフジコ・ヘミングのコンサートがあって、そこにクレイダーマンが観に来て、終了後に楽屋へ挨拶に行ったらフジコ・ヘミングがベタ褒めの言葉をかけたらしく、クレイダーマンが恐縮してしまったということも本人から聞きました。

<松本> 確かにフジコ・ヘミングのピアノとリチャード・クレイダーマンのピアノは、クラシックとポピュラーというジャンルの違いはありますけど、心のままに歌うように弾くという部分に共通点ありますね。

<脇田> もうひとつ、クレイダーマンの音楽に関するエピソードがあります。辻井伸行さんのお母さんの手記でこんなエピソードを機内誌で読んだことがありました。5歳の時、サイパンのショッピングセンターに行ったそうなんですけど、そこで自動ピアノで「渚のアデリーヌ」が演奏されてて、それを聴くや、どうしてもこの曲を弾きたいと駄々をこねたんだそうです。仕方ないので自動演奏を解除してもらって弾かせたところ、その演奏を聞いて続々と集まってきた人から大喝采を浴び、そのことがピアニストになりたいと思うようになる大きなきっかけとなった…、という内容です。クレイダーマンが演奏する作品自体にも、聞きたい、弾きたい、という人を惹きつける魅力が詰まっているという証拠ですね。

辻井伸行の母がピアノ練習よりも重視したこと
(DIAMOND ONLINE 2016/10/24)
https://diamond.jp/articles/-/105356?page=3

<松本> 自動演奏って、クレイダーマンが弾いてそこからデータ起こしたとか、そういう話ありましたっけ。

<脇田> 聞いたことないですねぇ。

<松本> 辻井さんは自動ピアノの演奏を聞いているうちに「僕の方がもっとうまく弾けるのに」って、フラストレーションが溜まったのかもしれませんね。

日本のピアノ教育にも影響

<脇田> 今振り返って見ると、日本ってクレイダーマンにとって特殊な市場だったようです。ヨーロッパも韓国もそうですが、「渚のアデリーヌ」の大ヒットがひと段落すると人気が落ち着いてゆくのですが、日本は熱狂的な状態がだいぶ長いこと続きました。

<松本> そうですね。最初に言ったようにイギリスと日本以外は、販売するレコード会社もコロコロ変わって継続的なプロモーションから縁遠かったですからね。脇田さんがデルフィンとの信頼関係をベースに、クレイダーマンと日本市場の良い接点を次々と見つけ出して攻めていったからですよね。実際、クレイダーマンが日本市場向けにレコーディングした曲はいっぱいありますが、その中で私が一番驚いたのは「プリンス・オブ・ライジング・サン」(日本での発売は1993年)でした。

<脇田> ああ、あれは音楽出版社の大洋音楽の水上(みずかみ)さんという方のアイディアなんですよ。クレイダーマンは「レディ・ダイ」というダイアナ妃に捧げた曲やってますよね。それにヒントを得たんです。水上さんが皇太子殿下がご婚約を発表されるという噂が出ているということで提案して来られたんです。まあ、はずれてもいいや、ということでレコーディングしてもらったんですね。それが日本でのリリース時期とどんぴしゃのタイミングだったんですよ。日テレさん、私のところに取材に来てね「脇田さん、フランスと電話して打ち合わせしているところ撮りたいんで、やってもらえませんかね。」なんて言われて、仕方ないので、フランスの音楽エージェント会社のマリー・クリスティーヌに電話して、ちょっとTVで取材受けてるんだけど、相手してくれるかな、なんてやりましたね。

「プリンス・オブ・ライジング・サン」が収録された『DESPERADO(邦題:哀しみの旅人)』のフランス盤(1992年発売)とシングル盤。シングル盤はクレイダーマンからの音声メッセージ入り。日本盤『悲しみの旅人』のアルバム・ジャケットは、このシングル盤のジャケットと同じような感じ。クレイダーマンとピアノの写真は同じだが、荒野を旅するようなイメージを与えてくれるフランス盤ジャケットは、確かに日本のファンには合わないかもしれない。

<松本> NHKの趣味ゆうゆうでやった「リチャード・クレイダーマンのピアノ・レッスン」(放送は1998年1月8日~4月6日)も良かったですね。パリ郊外にあるブルトゥィユ城でやる、というアイディアもおもしろかったですし、クレイダーマンがピアノ演奏の極意や1982年に初めてパリでコンサートした時の思い出を語ったり、調律師の方や作曲家のポール・ドゥ・センヌヴィルといった方々がクレイダーマン・サウンドの秘密を語ってくれたりしたのも楽しかったです。クレイダーマンがこれだけ長く唯一無二のポピュラー音楽のピアニストとして活動を続けられている秘密が垣間見られましたね。

<脇田> それまで10年くらいかな、「リチャード・クレイダーマン・ピアノ・コンクール」というのをやってたんです。クレイダーマンの曲を課題にして、優勝者はクレイダーマンのステージで演奏できるというものです。ふと、思ったんですね。「クレイダーマンが直接ピアノを指導するという番組があったら面白いんじゃない?」
 早速NHKに話に行きました。NHKの反応はすごく良かったです。収録した番組を後からレーザーディスクやVHSにしてビクターで販売する、ということも伝えましたから、それで制作費は回収できるという点も魅力に感じてくれたのでしょう、すんなり決まりました。

ピアノ教室の課題曲を収録した『リチャード・クレイダーマン・オン・TV』のアルバム。右は『ピアノ・レッスン』という、クレイダーマンのピアノ抜きの伴奏CD(いわゆるカラオケ)に、ピアノ譜面をつけた日本独自企画。譜面付きのLPはこれまでも発売されたことがあったが、クレイダーマンのピアノ演奏の部分がないカラオケ・アルバムが出始めたのはこの頃から。このような企画が発案され、デルフィン側がOKを出すというのも、デルフィンとの強いリレーション・シップのなせる技だろう。

<松本> クレイダーマンは、ピアノ教室の先生になって子どもたちを指導する、という立場になるなんて生まれてこのかた想像すらしたことなかったでしょうね。でも実際に、ピアノを弾き始めた子どもたちにとって、クレイダーマンの作品は、ブルグミューラの「貴婦人の乗馬」とか、テオドール・エステンの「人形の夢と目覚め」以上に弾きたい曲になっていたと思います。

<脇田> 彼は、なかなかシャイな男なんで、ピアノ教室の先生というのは大変だったのではないかと思いますよ。でも、それぞれの課題曲で演奏ポイント違いますからそういったものを事前にまとめておいて、それに沿って指導してくれたんでうまくいきました。

<松本> NHKといえば「ちゅらさん」の曲もやってますよね。

『ちゅらさん』のサウンドトラック盤にもクレイダーマンの作品が収録された。そして右は『Best Friend Japan My Love』と題し、「長い間」「つめたい雨」「幸せ」など新録を加え、過去に録音した日本の曲からもピック・アップされ作られた2002年のアルバム。

<脇田> そうですね。「Love Theme~Blue Lagoon~/ちゅらさん愛のテーマ」「ベスト・フレンド」の2曲ですね。これは番組挿入曲として使われました。同じビクター所属の歌手であるKiroroが番組テーマ曲に関わることになって、金城綾乃さんがピアノを弾いているということで、クレイダーマンにもやってもらおう、ということになったんですね。この2曲と、これまで録音した日本の曲に加え、台湾のレコード会社がクレイダーマンに録音を依頼して日本では未発売だった作品の中に日本の曲が含まれていたので、それを収録して来日に合わせて発売したのが『ベスト・フレンド』というアルバムでした。

ちゅらさん
2001年42日〜929

<松本> アンティーク・ピアノの企画は、確か民音(民主音楽協会)にアンティーク・ピアノのコレクションがあって、それを使ってレコーディングしたのですよね。

新しいこころみを次々と

<脇田> 実は、私はこういったイージー・リスニング以外にも、スタイリスティックスだとか、ヴァン・マッコイだとか、ロシアの合唱団とか、そういうものも手掛けていました。それ以外にもタンゴやフォルクローレなんかも手がけてて、民音がそういう音楽を取り上げてよくコンサートやってくれていたので、担当されていた安間さんという方と非常に親しくさせていただいていました。
 ある時「アンティーク・ピアノがちゃんと弾ける状態で保存してあるんだけど…」という話題が出て「これ、クレイダーマンに弾いてもらってはどうかな…」という話になりました。もちろん、ヨーロッパにもアンティーク・ピアノはあります。そりゃ本家ですから。ただ、ホコリをかぶっていて弾ける状態でないものがほとんどで、民音みたいに弾ける状態のものが何台も揃っている、というところはないんだそうですね。だからデルフィンに連絡してみたら、すぐにやろう、という話になりました。

ヴァン・マッコイの「ハッスル」とスタイリスティックスの「愛がすべて」は、今でもコマーシャルなどでよく耳にするスタンダード曲。これらの曲も脇田さんがプロデュースを担当していた。あと、ヴァン・マッコイと言えば、ブラス・バンドやっている人なら誰でも知っている「アフリカン・シンフォニー」も忘れてはならない。

<松本> 楽器ごとにキーが違いますよね。それぞれのキーに合わせてオーケストラの伴奏も作らなければならないから大変ですよね。

<脇田> そうなんです。それに録音するにしてもデリケートな楽器なだけに大変でした。録音する場所まで運んでいって、調律して、と。

<松本> 選曲はビクター側でされたのですよね。

<脇田> そうです。「おじいさんの時計」はアメリカの曲ですが、平井堅が歌って話題になってましたし、アンティークなピアノの響きが、より一層歌詞のイメージを引き立たせてくれるんではないかと期待した選曲でした。これは予想以上の出来でしたね。
 1曲、台湾の曲が入っているんですね。鳳飛飛 (フォン・フェイフェイ)という女性歌手が、1986年にリリースした「わき起こる喝采(掌聲響起)」という曲なんですが、トゥッサンはこれを日本の曲だと勘違いしちゃったんですね。もう、伴奏もできてるから、と言われたらやらないわけにはいきません。

<松本> クレイダーマン自身も、非常にいい刺激を受けたでしょうね。

<脇田> クレイダーマン自身もアンティーク・ピアノを弾くのは初めてで、しかもアンティーク・ピアノは鍵盤も硬かったり幅が少し狭かったりするのもある上に、ペダルの形が違ったり足で踏むのではなく膝で上に上げるタイプのものもあったりして苦労して弾いていました。偉大なクラシックの作曲家たちはこのようなピアノで作曲したり演奏をしたりしてきたわけで、そんな偉大は先輩たちのことを思い巡らせていたんではないかと思います。

『アンティーク・ピアノの贈り物』(2003年)と『想い出を売る店』(1986年)のサウンドトラック盤。『想い出を売る店』は、既存のレパートリーを転用したり編曲しなおしたりして演奏したものがほとんどで、「きっと、ずっと」だけが日本人によるオリジナル作品。

<脇田> 『想い出を売る店』はサンリオさんからお声がかかりました。それも当時の社長の辻信太郎さん直々です。辻さんが書かれた本をもとにサンリオさんで映画を撮ろうということになり、フランスでオーディションやって作った映画なんですが、辻信太郎さんは「音楽はクレイダーマンにお願いする。」と最初から決めていたそうなんです。私と所ディレクターとふたりでサンリオの本社に行き、ご挨拶したことを覚えてます。

<松本> そういえば「綿の国星」というアニメの音楽もやりましたね。

<脇田> 大島弓子さん作の漫画のアニメ映画ですね。1984年です。これは主題曲だけやりました。

<松本> 日本市場向け、ということで言えば、日本の曲だけを集めたアルバムも2枚つくってますね。1990年の『アネモス』と1995年の『郷愁の詩』です。『アネモス』の方は、クレイダーマンが「加山雄三ショー」(1989年3月25日)で弾いた「加山雄三メドレー」をメインの曲に据えていますが、私、あの演奏をTVで見た時は鳥肌たちました。会場のお客様も一斉に「うわぁ」という感嘆の声を上げていましたね。

<脇田> あれ(『アネモス』のアルバム)は日音(TBS系の楽曲版権権利を扱う会社)の村上社長の肝いりの企画なんですよ。ぜひ、クレイダーマンに日本の歌謡曲やフォークソングを取り上げてもらおうじゃないか、ということになったんです。私はあまりその分野は得意ではないので、ほぼ村上さんが選曲されて。曲名見ていくと、「これ、日音さんが版権持っている曲ではないですよね。」という曲があるわけです。そしたら「いい曲なんだからやればいいじゃないか。」そうおっしゃられたんで、それじゃあということで、私の方からは番組で評判だった加山雄三メドレーを選曲に入れてもらいました。

<松本> 『アネモス』というアルバム・タイトルは確かファン・クラブの方が付けられた、と聞いた思えがあります。

左は1990年に発売された『アネモス』。右は2003年にクレイダーマンのピアノに合わせて、「渚のアデリーヌ」をcobaのアコーディオン、「子供たちのロンド」を川井郁子のヴァイオリンで、といった具合に、日本のソリストたちが共演したアルバム。

<脇田> そうですね。ファン・クラブ創設の頃の方で川辺さんという方です。いろいろな本で調べ上げて、ギリシャ語で「風」を意味する「アネモス」という言葉を見つけてくれたんですね。このアルバム・タイトルの付け方は素晴らしかったです。ジャケット・デザインも、それに合わせた感じにしました。

<松本> 次の『郷愁の詩』なんと言ってもルフェーヴルのアレンジがいいですよね。「山田耕筰メドレー」とか「夏の思い出」とか「早春賦」とか。特に「故郷」の演奏は素晴らしいです。いったい同時にいくつの音が鳴ってるの?というくらい音を重ねてて、さらに楽器ごとにメロディを少しずつ音をずらして変化させていくことで音の厚みが増して、日本人が編曲したものとは全く違う豊かな表情が感じられます。クレイダーマンの方も、「さくらさくら」で、あたかも琴を弾いているかのような音を出しているのもすごいですし。音楽家たちが日本に媚びることなく、逆に無理やり自分のスタイルに押し込むことなく、日本のメロディや歌詞と真正面から向き合っているのがわかるアルバムです。

<脇田> ルフェーヴルには、日本の曲をもっとアレンジしてほしかったですね。このアルバムの中には、レイモン・ルフェーヴルがアレンジした曲、息子のジャン・ミシェル・ルフェーヴルがアレンジした曲と、デルフィン・プロダクションの方で先にベースとなる部分をアレンジしてそれにジャン・ミシェルやレイモンがストリングスのアレンジを重ねたものの3パターンあるんだけど、さすがルフェーヴルお父さんのアレンジは違うよね。

1995年に発売された「郷愁の詩」で左が日本盤、右が台湾盤。台湾盤は「秋の祈祷」と“の” が入っているが、当時の台湾では 的“ を の” と書くことが流行っていたという。クレイダーマンとルフェーヴルが並んだ写真が使われたことで、日本のファンの間でも人気だった。「花」は以前、台湾からのリクエストでレコーディングされたことがあったが、その同じピアノ演奏を使ってルフェーヴルのアレンジにより再録音された。また、ここに収録された曲とは別に、滝廉太郎の「花」が息子のジャン・ミシェル・ルフェーヴルの編曲でレコーディングされており、こちらはユーキャンから発売されているリチャード・クレイダーマン全集に収録されている。

<松本> おもしろいところでは「だんご3兄弟」(1999年)もやってますね。

<脇田> この時は同時に「黒猫のタンゴ」と「愛のオルゴール」も録音してもらいました。「愛のオルゴール」は本当はカナダ人のピアニスト、フランク・ミルズがヒットさせた曲なんですけど、ビクターに「なんで、クレイダーマンの「愛のオルゴール」はCDになってないんですか」って問い合わせがよく入っていたから、じゃあ録音しようか、となったんです。

<松本> 「愛のオルゴール」は全米チャート3位まで食い込んだ曲で、当時は「恋はみずいろ」以来の快挙と日本でも話題になったのにフランク・ミルズの曲だと知らない人が増えてきているんですね。フランク・ミルズは自分のところで音源持っているようで、早くからプライベート・レーベルに移行してマーケット視点に欠けていたところが災いしているところがあるかもしれません。日本では、高田みづえが「潮騒のメロディ」として歌ってヒットしましたし、当時のラジオやテレビのBGMとしても頻繁に使われていたんですけど、ユニバーサル・ジャパンから出ているベスト盤1枚で終わってしまっているのがもったいないです。

左は「愛のオルゴール」が収められているフランク・ミルズの『詩人と私』のアルバム。録音は1974年。しかし話題にならず、ミルズは1978年にはタクシー・ドライバーとして生活費を稼ぐまでに生活が困窮。しかしその年末にオタワの放送局で曲が取り上げられるや、カナダで、次いで全米で大ヒット。ちなみに、フランク・ミルズは1972年にも全米チャートに46位止まりだったが、”Love Me, Love Me Love”という曲を送り込んでいる。右は「愛のオルゴール」が初めて収録された『だんご3兄弟』のアルバム。「だんご3兄弟」はコンサートでも大ウケだった。

<脇田> クレイダーマンはオリヴィエ・トゥッサンのプロデュース力が大きいですよね。ミシェル・ポルナレフに「忘れじのグローリア」を提供したメロディ・メーカー、ポール・ドゥ・センヌヴィルを起用して、時には自分自身も加わって多くのメロディを生み出し、さらにそれをエルヴェ・ロワとかブルーノ・リベラとか、自身でオーケストラのアルバムを出しているような優秀なアレンジャーに編曲を依頼し、さらには、ドイツのオーケストラ・リーダーのジェームス・ラスト、オランダ人フルート奏者のベルディーン・ステンベルク、ベルギー人ギター奏者のフランシス・ゴヤ、といった各国で人気のアーティストとの共演を盛んにおこなったり、日本や中国だけでなくタイやインドなどでも現地のアーティストと共演して地元の曲を取り上げたりして、ファン層の拡大やローカルなマーケティングにも注力してきてますしね。

<松本> そして、クレイダーマンにピアノ教室の先生になってもらったり、日本の曲を演奏してもらったり、何種類ものアンティーク・ピアノを弾いてもらったりするなど、市場開拓だけでなく、リチャード・クレイダーマンというアーティストを遠い日本から育ててきた、脇田さんの貢献度も計り知れないものがあると思います。

<脇田> ビクターが関連会社で音楽教室を持っていたのが大きかったですね。ピアノ・コンクールを開いて、優勝者は各地で開催されるクレイダーマンのコンサートで演奏を披露する、というイベントを、もう何年もやりました。

<松本> ピアノを学ぶ人にとって、クレイダーマンのピアノ曲は弾いてて楽しいですし、聴く人も楽しめますからね。ビクター音楽教室も生徒さん増えたんでしょうね。私もピアノを習ってたことがありましたが、ツェルニーが単調でつまらなく挫折してしまいました。あの頃にクレイダーマンの曲が弾けていたなら、もう少し長くピアノ練習を続けていたと思います。
いろいろ貴重なお話を、ありがとうございました。

リチャード・クレイダーマンのオリコン・チャート登場作品

アルバムタイトル 種別 最高位 登場回数 発売日 レコード番号
ベスト ベスト盤 11 86 80-02-21 VIP-7294
パンドラの旅 オリジナル・アルバム 37 17 80-06-21 VIP-28003
午後の旅立ち シングル盤 78 6 81-01-21 VIPX-1553
愛のコンチェルト オリジナル・アルバム 8 46  81-02-05  VIP-28014
エクセル・ワン ベスト盤 46 19 81-12-20 VIP-28501
星のセレナーデ オリジナル・アルバム 23 20 82-03-05  VIP-28045
新大全集  ベスト盤 61 5 82-09-05 VIP-7309-10
虹色の心   オリジナル・アルバム 41 9 83-04-21 VIP-26068

出典:オリジナルコンフィデンス社刊の以下の書籍より引用いたしました。
 オリコン・チャート・ブック〈アーティスト編 昭和43年‐昭和62年〉
 オリコン・チャート・ブック〈LP編(昭和45年‐平成1年)〉


Special thanks: 脇田 信彦WAKITA MUSIC PLANNING JAPAN