レイモン・ルフェーヴルのバイオグラフィ
北フランス、カレーの生まれ
パリ郊外のシュレンヌ
にあるギョウム・テル・
スタジオにて
家は雑貨屋で、音楽的素養があった父の影響で5歳の時からピアノのレッスンを受けていた。そして16歳の頃、1946年の終わりにはパリ音楽院フルート科に入学。現代フルート奏法の確立者であるマルセル・モイーズ氏から3年間フルートを学んだ。レイモン・ルフェーヴルはモイーズにとっては最後の教え子だったということである。学友には自ら四重奏団を結成して来日公演も重ね、フルート演奏のための作品も多く残しているレイモン・ギョがいる。1972年のルフェーヴルのコンサートでは「コンドルは飛んで行く」で見事なフルート・デュオを聴かせてくれた。
レイモンはパリ音楽院の学生だれしもそうであるように「オペラ座のフルート奏者になりたい」という夢を持っていた。しかし彼が選んだ道は、学費をかせぐためにダンス・ホールで演奏していたのと同じポピュラー音楽の世界だった。彼は当時のクラシック界の官僚的な雰囲気に嫌気がさしていたのである。
彼はまずはジャズ・ピアニストとしてユベール・ロスタンやベルナール・イルダ楽団に参加しジャズやラテンを始めあらゆるジャンルの音楽を肌で覚えていった。そして1956年9月についに念願のオーケストラを結成。女性歌手ダリダのデビュー曲「バンビーノ」の編曲と指揮を担当し、この曲のヒットとともに レイモン・ルフェーヴルの名が世に知れ渡ることになった。
1956年から20年あまり、テレビの生放送音楽番組で活躍
その後「ミュジコラマ」「パルマレス・デ・シャンソン」「カデ・ルーセル」といった日曜日ゴールデンタイム生放送の音楽番組を20年あまりも担当し、さらに「金のバラ・フェスティヴァル」「サン・レモ音楽祭」など音楽祭の伴奏指揮者を勤めるかたわら、みずからのオーケストラをひきいてレコーディングを続け、全米ヒットチャートにも1958年に「雨の降る日」(9週登場、最高30位)を、1968年には「バラ色の心」(12週登場、最高37位)を送り込んだ。
オリジナルの歌手のレコーディング作品がフェイド・アウト(曲の終わりで同じメロディを繰り返し、音をだんだん小さくしていく)で終わっていても、ルフェーヴルの演奏盤では終わりの部分を独自に付加して曲の余韻を残して印象深く終わらせている作品(たとえば「レイン・レイン」「愛遙かに」「嘆きのサンフォニー」「哀しみの終わりに」…)がかなりの数あるが、それは生放送の音楽番組での伴奏を担当していたところから必然的に発生してきたものであろう。また、他のイージー・リスニングのアーティストに比べて、スタンダードなラテンの曲や映画音楽の作品が少ないのも、リハーサルを含めて多くの才能ある歌手と音楽を創り上げていく機会が多かったことにより必然的にそうなってしまったのではないかと推測される。ルフェーヴルは生放送のテレビ番組には決して出演しなかったと言われるイヴ・モンタンを除いてフランスの全ての歌手と共演した、ということを述べているが、その経験が彼の編曲や選曲に息づいているのだ。
また、レイモンは映画音楽作曲家としても1966年以降フランスのコメディ俳優ルイ・ド・フュネス主演の作品を中心としたジャン・ジローの監督作品を中心に数多くの音楽を手がけ、フランスでは映画音楽作曲家としても名を残している。日本では、ポール・モーリアとの共作となる「サン・トロペのお嬢さん」(1966年映画「大混線」より)がかなりヒットしたということで、当時発売されたギターの楽譜本などにも譜面が掲載されていた。
ポール・モーリアの名が出たが、彼や先輩フランク・プゥルセルとの親交は深く、1960年代頃は互いに協力して作品を作り上げたりレコーディングをおこなったりしたことも多かったようだ。中でも1962年にイギリスのペトラ・クラークがヨーロッパでヒットさせ、翌年リトル・ペギー・マーチが歌い全米でヒットさせた「恋のシャリオ(アイ・ウィル・フォロー・ヒム)」はポール・モーリアが「デル・ローマ」、フランク・プゥルセルが「J. W. ストール」とアメリカ人っぽい変名を使って作曲し、 レイモン・ルフェーヴルがアレンジを施した曲である。ただし正確に言うと、当時のフランスの音楽著作権管理では作曲者の名前は2名しか書く欄がなかったのでルフェーヴルは編曲者の欄に記入したということらしい。(フランスでは編曲に対しても著作権が存在する。)これはルフェーヴル氏が述べていた。
そのほか、プゥルセルとは彼のレコーディング作品としてプゥルセルとの共作曲「シュース!!」を始め何曲か残していたり、1957年の『女体』というアルバムでは「腕」という曲でピアノを披露し、またルフェーヴルのウィンナ・ワルツのアルバムでは、半分近くの曲をプゥルセルがアレンジを提供するなど密接な協力関係があった。一方のポール・モーリアとは、彼が当初レコードを出していたバークレー傘下のベル・エールでモーリアがクリスマス・アルバムを制作した際に、ルフェーヴルは「清しこの夜」のアレンジを提供しており(だから後にふたりが出したそれぞれクリスマス・アルバムのアレンジの傾向が非常に良く似ている)、その後もポール・モーリアのレコーディングで実はルフェーヴルがオーケストラの指揮をしているという作品も存在するということである。なお、ルフェーヴルの次男、ジャン・ミッシェルの名付け親はプゥルセルである。
日本での活躍
ファンとの集いで鎌倉へ。
日本ではその後モーツァルトの交響曲第40番をモチーフにした「愛よ永遠に」や「哀しみの終わりに」といった曲が代表的な曲となり「ポップなモーリアに対するクラシカルなルフェーヴル」というイメージが定着したが、コンサートを聴く限り決してそのようなことはなく、むしろルフェーヴルのコンサートの方が迫力があり、特にブラス群などに特徴のあるダイナミックな演奏を繰り広げているし、モーリアとはまた違った充実したサウンドを聴かせてくれる。しかし、朝日ソノラマ→キング→ロンドン→ポリドール→ビクターと日本での発売会社が次々と変わっていく中でプロモーション方法もコロコロ変わり、またユニバーサルやソニーのような世界的な配給会社との契約がないため、日本以外ではCDが発売される機会もなく、あまり商売っ気のないルフェーヴルは演奏やアレンジの良さに反してマイナーな位置にとどまってしまっているのがファンとして寂しい。
来日公演
リハーサルにて。
また、2000年、2002年、2004年そして2006年には息子のジャン・ミシェルがオーケストラを率いて来日公演を果たし、父親が作り上げてきたサウンドを見事なまでに再現したことは記憶に新しい。レイモン・ルフェーヴル自身の指揮による日本のオーケストラを振っての来日公演の話もあったのだが、幻となってしまった。フル・オーケストラでのルフェーヴル・サウンド、一度は聴いてみたかった。
数多くの音楽遺産を残して
ペール・ラシューズにて。
亡くなる少し前の2005年のこと、「恋はスープの冷めないうちに」がミスター・コスミックを始めとした複数のロック・バンドにより取り上げられ、特にケータイの着信メロディとして圧倒的な支持を得る一方、ドイツではヘヴィ・メタル・バンド ”エドガイ”も「憲兵隊のマーチ」を「ラ・マルシェ・デ・ジャンダルム(アルバム『ホール・オブ・フレイムス』に収録。日本ではビクターから発売。)」として自分のレパートリーに取り入れ好評を博した。パルマレス・デ・シャンソンを知らない、フランスの若い世代の人たちの間にもレイモン・ルフェーヴルの名が知られるようになったのは、音楽家として本当に幸せだったと思う。
レイモン・ルフェーヴル氏は今、ショパン、エディット・ピアフ、ビゼーら、多くの音楽家とともに、ペール・ラシェーズ墓地に眠っている。