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フランス映画:ダリダ〜あまい囁き〜

 ダリダの映画が公開されました。 
 ダリダのデビュー曲「バンビーノ」で、あの鮮烈な伴奏を提供してヒットに貢献したはずのルフェーヴルの「ル」の字も出てこなかったのは残念ですが、古いバークレーのレーベル・ロゴや、バークレーの社長室に所属アーティストの写真としてアズナヴールやマチューなどの写真が飾ってあったり、「今はロックとイエイエの時代でダリダの歌は時代遅れだ」と言っている場面でラジオからクロード・フランソワのデビュー曲「ベル!ベル!ベル!」が流れていたのは、フレンチ・ポップス・ファンとしてニンマリする場面でした。また、気が滅入ってしまったダリダに笑顔をもたらしていたのがルイ・ド・フュネスのコメディだった、というのもルフェーヴル・ファンだからこそ、その意味が理解できる場面でした。 
 幼い頃の家庭環境や生い立ちが人格に大きく影響する、というのはよく言われる話ですが、彼女もまた、そんな一人だったのですね。妻・母親になりたいという気持ちに反して、中絶でこどもを産めない体になってしまったこと、そしてつきあってきた3人の男性の自殺が彼女の精神を蝕み、逆にそういった経験を題材とした歌を歌うことで、さらに歌手としての名声を高めていってしまう、このギャップがますます彼女を追い込んでいったのでしょうね。「18歳の彼」「あまい囁き」「灰色の途」「時の流れに」「潮風のマリー(待ちましょう)」といったヒット曲の歌詞を彼女の生き様にうまくシンクロさせることで、歌手としてのダリダと、女性としてのヨランダ(本名)というふたりの人格によって繰り広げられる葛藤がうまく描かれていました。ただ、時代が行ったり来たりするのはちょっと混乱しましたが。 
 DVD/ブルーレイが発売されたら、もういちどじっくり見直したいです。 

<以下、映画の宣伝ページに書かれていない、ルフェーヴル・ファン的 ダリダ年譜> 
1933年 カイロで生まれる。
父はカイロのオペラ劇場で第一ヴァイオリン奏者。ダリダの芸名がサン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」から取られているのはその影響かもしれない。 
  
1954年 美人コンテスト「ミス・オンディーヌ(水の精)」で優勝。
映画「ツタンカーメンの仮面」に出演し「デリラ」という芸名になる。クリスマスに監督とパリに出る。パリの街が気に入り、そのまま在住を決意。 

1955年 ローラン・ベルジュのレッスンを受け歌手に。
キャバレー「ヴィラ・デスト」で歌手として第一歩を踏み出す。次いで「ドラブ・ドール」と契約。

1956年 4月にオランピア劇場で行われた新人発掘オーディションを受ける。 
実は当日はあがってしまい出来は良くなかったらしい。劇場の隣のビストロで審査員をしていたエディ・バークレーとルシアン・モーリスに偶然出会う。モーリスは彼女の才能を見抜き、バークレーに1年の契約を薦める。ルシアン・モーリスは「ウーロップ・ヌメロ・アン(ヨーロッパ・ナンバー・ワン)」という放送局の音楽ディレクターであり、ルフェーヴルをTV番組「ムジコラマ」に起用して成功させ、1976年まで20年あまりもTVの音楽番組の最前線で活躍し続けるきっかけを与えたほか、のちにDisc AZというレコード会社の音楽ディレクターにも就任しミッシェル・ポルナレフを育てている。モーリスが亡くなった直後に発表されたポルナレフのヒット曲「愛のコレクション」は、副題が「ルシアン・モーリスに捧ぐ」となっている。

1956年 10月28日に「バンビーノ」を発表。 
エディ・バークレーはダリダの歌唱力を持ってしてそれに対抗できるオーケストレーションの曲でないとヒットは難しいと判断したのだろう。デビュー曲「マドンナ」の販売結果を受け、2作目の「Le Torrent:急流」以降はアレンジャーとして、バークレーと契約したばかりだった新進気鋭のアレンジャー、当時26歳のレイモン・ルフェーヴルを起用する。 「バンビーノ」はナポリ音楽祭で優勝曲となったカンツォーネ「グァリオーネ」が原曲。冒頭の衝撃的なストリングス。その後に展開されるキレの良いマンドリンとストリングスのドラマチックな"からみ"はダリダの歌唱を引き立て、それに伴いルフェーヴルの名も知られることとなった。当時のダリダのシングル盤やアルバムには「"レイモン・ルフェーヴルと彼のオーケストラ"とともに」の文字が大きく添えられていた。

1957年 ジルベール・ベコーがダリダに贈った「雨の降る日」が大ヒット。
フランスでのヒットを聞きつけたアメリカのジャズ・シンガー、ジェーン・モーガンが1958年にこれを取り上げ米英で大ヒット(英国では1位)させる。この時にオリジナルを歌った歌手としてのダリダの名も英語圏に知られることになったかもしれない。 
なお、モーガンが所属していたアメリカのキャップレコードは、当時バークレーレコードのアメリカ販売窓口だったようで、モーガンの「雨の降る日」ヒットの相乗効果を狙うべくルフェーヴルが演奏する「雨の降る日」を発売したところ、これが全米で大ヒット(ビルボードに9週連続登場で最高30位)となる。その後、ジェーン・モーガンはルフェーヴル伴奏によるダリダの作品を聴いたのであろう、そのアレンジの素晴らしさに感激し、何曲かルフェーヴルの編曲でレコーディングをおこなっている。実際、かつてアメリカで発売されたジェーン・モーガンのCDのライナーノーツに、ルフェーヴルが写っている写真が掲載されていた。 
ところで、フランク・プゥルセルの「オンリー・ユー」が全米でヒットしたのは、ルフェーヴルの「雨の降る日」がヒットした翌年の1959年の春のこと。プラターズの「オンリー・ユー」がヒットしたのが1955年なので、アメリカのキャピトル・レコードが「今、フランスのオーケストラが熱い」と判断しシングル・カットされたのだと推測される。こちらは16週間登場で最高9位となった。
1965年 ルフェーヴルによる編曲伴奏はこの年で終了。
ルフェーヴルは新しく始まったTV番組「パルマレス・デ・シャンソン(歌のヒット・パレード)」に注力。ダリダとはTVでの共演のみ。

会報30号に、LACスタッフの市倉さんが書かれた内容を一部参考にさせていただきました。

[2018.05.20 up date]