イージー・リスニングとフレンチ・ポップスと…

 
 
 
レイモン・ルフェーヴルの音楽やイージー・リスニング、フレンチポップスについて、
あれこれ語ります。 
 

フランシス・レイ・オーケストラ日本公演

2018年10月27日


パトリス・ペイリエラス指揮によるフランシス・レイ・オーケストラの日本公演がありました。パトリス・ペイリエラスは1984年からルフェーヴルのオーケストラでもキーボード奏者として参加しており、日本人アーティスト(アコーディオン奏者、三味線奏者)と共演してNHK-BSに出演したり、ビクターからもクリスマス・アルバムを出していたりします。
https://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A022856.html

オーケストラは25人編成で、うち7人くらいが日本人だったと思います。フランス人アーティストのレベルは高く、ルフェーウルやモーリアのコンサートでおなじみのAlex Perdigon(アレックス・ペルディゴン[トロンボーン]), Jacques Peillon(ジャック・ペイロン[ホルン]), Gerard Niobey(ジェラール・ニオベイ[ギター])といった演奏者に加え、ジャン・ジャック・ジュスタフレのコンサートでも来日したJean-Philippe Audin(ジャン・フィリップ・オダン)の鳥肌もののチェロ演奏が聴けたのはたいへん満足でした。Jean-Philippe Audinは1988年に"Toute Une Vie / 人生のすべて"がヒットして話題となり、1991年にはオカリナ奏者のDiego Modenaとの共演アルバムの1曲"Song of Ocarina / カリブの渚"でフランスの月間ヒットチャートで1位(1992年1月)を獲得したというフランスでも指折りのチェロ奏者なのです。

※フランスでは「エル・ビンボー(オリーブの首飾り)」とか「ランバダ」など、こういったダンスものの作品が純粋なフレンチ・ポップスに紛れて、定期的にヒット・パレードの上位を賑わせていました。


パトリス含め25名編成のオーケストラは、それなりに迫力もあり、情感豊かな演奏でレイが作った美しいメロディを堪能することはできましたが、パトリスの編曲が入っており、特に有名曲はオリジナルに忠実な演奏であってほしかったと思います。また、日本人になじみのない曲も多く、同じ作曲家だけあって似た曲調が続くこともあり、観客を飽きさせない工夫が必要だと感じました。たとえば、「これから演奏する曲はこういう映画のこういう場面で使われた曲です。」みたいな解説が日本語で入るだけでだいぶ聴き方が違ってきたと思います。

 

また、会場で配られたプログラムがコレなんですが、これも以下のように、たったこれだけの情報を追加するだけで、だいぶ聴くときの受け止め方が変わって来ると思います。だいたい作曲年代順に演奏されていたのですね。観客をいかに引き込んでいって次回公演の動員につなげるか、それがこういったジャンルの音楽を長続きさせていく鍵ではないか思います。

01. Un Homme et une Femme / 男と女(1966年の映画)
02. Aujourd'hui C'est Toi / 男と女II - 今日貴方が…(1977年の映画)
03. Vivre pour Vivre / パリのめぐり逢い(1967年の映画)
04. Mayerling Overture / うたかたの恋 - オープニング(1968年の映画)
05. La Valse / うたかたの恋 - 宮廷のワルツ
06. La Rencontre / うたかたの恋 - 出会い
07. 13 Jours en France / 白い恋人たち(1968年の映画)
08. Un Homme Qui Me Plait / あの愛をふたたび(1969年の映画)
09. Concerto Pour La Fin D'un Amour / あの愛をふたたび - 恋の終わりのコンチェルト(三重奏)
10. La Bicyclette / 自転車乗り(1968年にイヴ・モンタンが歌った。ピエール・バルー作詞)
11. Le Passager De La Pluie / 雨の訪問者(1970年の映画)
12. Une Histoire D'amour (Love Story) / ある愛の詩(1970年の映画)
13. La Course Du Lièvre / 狼は天使の匂い(1972年の映画)
14. Le Corps De Mon Ennemi / 追憶のメロディ(1976年の映画)

01. Les Uns Et Les Autres / 愛と哀しみのボレロ(1981年の映画)
02. Ballade pour Ma Memoire / 愛と哀しみのボレロ - ママの想い出
03. D'Autres Je t'aime / しあわせ - 新しい愛(1998年の映画)
04. Concerto Pour La Fin D'un Amour / あの愛をふたたび - 恋の終わりのコンチェルト(オーケストラ)
05. Le Valse du Mariage / 雨の訪問者 - 婚礼のワルツ
06. Bilitis - Generique / ビリティスのテーマ(1977年の映画)
07. Un Homme Et Une Femme - Plus Fort Que Nous / 男と女 - 愛は私たちより強く
08. Les Misérables / レ・ミゼラブル(クロード・ルルーシュ監督による1995年の映画で、C.M.シェーンベルクの曲とは別)
09. Samba Saravah / 男と女 - サンバ・サラヴァ(バーデン・パウエルが作品。ピエール・バルーが歌う)
10. Sunny's Theme / 栄光への賭け(1970年の映画)
11. adly / 栗色のマッドレー(1971年の映画)

フランス映画:ダリダ〜あまい囁き〜

2018年5月20日


ダリダの映画が公開されています。
ダリダ 〜あまい囁き〜
ダリダのデビュー曲「バンビーノ」で、あの鮮烈な伴奏を提供してヒットに貢献したはずのルフェーヴルの「ル」の字も出てこなかったのは残念ですが、古いバークレーのレーベル・ロゴや、バークレーの社長室に所属アーティストの写真としてアズナヴールやマチューなどの写真が飾ってあったり、「今はロックとイエイエの時代でダリダの歌は時代遅れだ」と言っている場面でラジオからクロード・フランソワのデビュー曲「ベル!ベル!ベル!」が流れていたのは、フレンチ・ポップス・ファンとしてニンマリする場面でした。また、気が滅入ってしまったダリダに笑顔をもたらしていたのがルイ・ド・フュネスのコメディだった、というのもルフェーヴル・ファンだからこそ、その意味が理解できる場面でした。
幼い頃の家庭環境や生い立ちが人格に大きく影響する、というのはよく言われる話ですが、彼女もまた、そんな一人だったのですね。妻・母親になりたいという気持ちに反して、中絶でこどもを産めない体になってしまったこと、そしてつきあってきた3人の男性の自殺が彼女の精神を蝕み、逆にそういった経験を題材とした歌を歌うことで、さらに歌手としての名声を高めていってしまう、このギャップがますます彼女を追い込んでいったのでしょうね。「18歳の彼」「あまい囁き」「灰色の途」「時の流れに」「潮風のマリー(待ちましょう)」といったヒット曲の歌詞を彼女の生き様にうまくシンクロさせることで、歌手としてのダリダと、女性としてのヨランダ(本名)というふたりの人格によって繰り広げられる葛藤がうまく描かれていました。ただ、時代が行ったり来たりするのはちょっと混乱しましたが。
DVD/ブルーレイが発売されたら、もういちどじっくり見直したいです。
 
<以下、映画の宣伝ページに書かれていない、ルフェーヴル・ファン的 ダリダ年譜>
1933年 カイロで生まれる。
父はカイロのオペラ劇場で第一ヴァイオリン奏者。ダリダの芸名がサン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」から取られているのはその影響かもしれない。
 
1954年 美人コンテスト「ミス・オンディーヌ(水の精)」で優勝。
映画「ツタンカーメンの仮面」に出演し「デリラ」という芸名になる。クリスマスに監督とパリに出る。パリの街が気に入り、そのまま在住を決意。
 
1955年 ローラン・ベルジュのレッスンを受け歌手に。
キャバレー「ヴィラ・デスト」で歌手として第一歩を踏み出す。次いで「ドラブ・ドール」と契約。
 
1956年 4月にオランピア劇場で行われた新人発掘オーディションを受ける。
実は当日はあがってしまい出来は良くなかったらしい。劇場の隣のビストロで審査員をしていたエディ・バークレーとルシアン・モーリスに偶然出会う。モーリスは彼女の才能を見抜き、バークレーに1年の契約を薦める。ルシアン・モーリスは「ウーロップ・ヌメロ・アン(ヨーロッパ・ナンバー・ワン)」という放送局の音楽ディレクターであり、ルフェーヴルをTV番組「ムジコラマ」に起用して成功させ、1976年まで20年あまりもTVの音楽番組の最前線で活躍し続けるきっかけを与えたほか、のちにDisc AZというレコード会社の音楽ディレクターにも就任しミッシェル・ポルナレフを育てている。モーリスが亡くなった直後に発表されたポルナレフのヒット曲「愛のコレクション」は、副題が「ルシアン・モーリスに捧ぐ」となっている。
 
1956年 10月28日に「バンビーノ」を発表。
エディ・バークレーはダリダの歌唱力を持ってしてそれに対抗できるオーケストレーションの曲でないとヒットは難しいと判断したのだろう。デビュー曲「マドンナ」の販売結果を受け、2作目の「Le Torrent:急流」以降はアレンジャーとして、バークレーと契約したばかりだった新進気鋭のアレンジャー、当時26歳のレイモン・ルフェーヴルを起用する。 「バンビーノ」はナポリ音楽祭で優勝曲となったカンツォーネ「グァリオーネ」が原曲。冒頭の衝撃的なストリングス。その後に展開されるキレの良いマンドリンとストリングスのドラマチックな"からみ"はダリダの歌唱を引き立て、それに伴いルフェーヴルの名も知られることとなった。当時のダリダのシングル盤やアルバムには「"レイモン・ルフェーヴルと彼のオーケストラ"とともに」の文字が大きく添えられていた。
 
1957年 ジルベール・ベコーがダリダに贈った「雨の降る日」が大ヒット。
フランスでのヒットを聞きつけたアメリカのジャズ・シンガー、ジェーン・モーガンが1958年にこれを取り上げ米英で大ヒット(英国では1位)させる。この時にオリジナルを歌った歌手としてのダリダの名も英語圏に知られることになったかもしれない。
なお、モーガンが所属していたアメリカのキャップレコードは、当時バークレーレコードのアメリカ販売窓口だったようで、モーガンの「雨の降る日」ヒットの相乗効果を狙うべくルフェーヴルが演奏する「雨の降る日」を発売したところ、これが全米で大ヒット(ビルボードに9週連続登場で最高30位)となる。その後、ジェーン・モーガンはルフェーヴル伴奏によるダリダの作品を聴いたのであろう、そのアレンジの素晴らしさに感激し、何曲かルフェーヴルの編曲でレコーディングをおこなっている。実際、かつてアメリカで発売されたジェーン・モーガンのCDのライナーノーツに、ルフェーヴルが写っている写真が掲載されていた。
ところで、フランク・プゥルセルの「オンリー・ユー」が全米でヒットしたのは、ルフェーヴルの「雨の降る日」がヒットした翌年の1959年の春のこと。プラターズの「オンリー・ユー」がヒットしたのが1955年なので、アメリカのキャピトル・レコードが「今、フランスのオーケストラが熱い」と判断しシングル・カットされたのだと推測される。こちらは16週間登場で最高9位となった。
 
1965年 ルフェーヴルによる編曲伴奏はこの年で終了。
ルフェーヴルは新しく始まったTV番組「パルマレス・デ・シャンソン(歌のヒット・パレード)」に注力。ダリダとはTVでの共演のみ。
 
会報30号に、LACスタッフの市倉さんが書かれた内容を一部参考にさせていただきました。

JET STREAM放送開始50周年展

2017年7月2日



JET STREAMの放送が開始されたのが1967年7月3日、今から50年前のことでした。当時はまだFM東京はなく、東海大学が関係したFM放送実用化に向けての実用化試験局として存在していたFM東海で放送されていました。FM東京から放送されたのが1970年4月27日。レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラによる放送開始10周年記念コンサートが開かれ生中継されたのは1980年3月10日のことでした。
私としては、JET STREAMは城達也さんの引退を持って終わっているので、最近は全く聴いておらず興味ないのですが、さすがにそれまで開催された記念コンサートの写真ぐらいはあるだろうと期待して来場したところ、完全に肩すかしでした。ルフェーヴル、カラベリ、ミッシェル・ド・フランス、アンドレ・バウワーといった人たちが指揮している写真を期待していたのですが…。まあ、昔と違って肖像権とかうるさいですしね。しょうがないか。
(写真は、7月2日に六本木にある東京ミッドタウンで開催されたイベントの展示パネルを撮影したものです。クリックすると拡大します。archivesでは、ハイレゾ音源で城達也のナレーションが聴けたそうです。)

ホームページのリニュアル

2016年9月22日


ホームページをリニュアルしました。
スマートフォンのような小さい画面の場合は自動でデザインが変わり、いちいち画面を拡大させなくても文章や写真がよみやすく表示されように「レスポンシブ」という方式に対応させました。
最初は「自動変換で旧サイトを移行してしまおう」と思ったのですが、これを機にイチから作り直しデザインも統一させ見やすくしました。これからもイージー・リスニングの情報を残していこうと思います。

ルフェーヴル日本盤レコードのディスコグラフィ

2014年6月4日


実はひっそりと完成しています。
ただし、ジャケット写真がないものが多数あります。
こちらからどうぞ。
http://www.myriades.jp/encyclopedie/encyclopedie_top.html

ビリー・ヴォーンと音楽興業とCD販売と…

2013年9月23日


ビリー・ヴォーンの来日公演に行ってきました。ジャン・ジャック・ジュスタフレを招聘したテイト・コーポレーションの企画ということで、伊藤音楽事務所でやっていた時代とはステージ構成を大きく変えてあるとの話を聞き会場に向かったのですが、幕が開いてびっくり。生音主体の薄っぺらいサウンドではない、きちんとミキシングされバランスが調整された音であるのはもちろんのこと、視覚的にもサックスを左にトランペットとトロンボーンを右に配置することで、ステージの左右への広がりと客席からステージが近くに感じられるような工夫がなされており、さらにはステージ後方のスクリーンにレコード・ジャケットやハワイの風景を曲名とともに投影させ、視覚聴覚両面での素晴らしい演出が施されていました。
演奏の方は、ビリー・ヴォーンの息子リチャードによる日本語での曲説明でお客さまを和ませつつ、3人の若手女性ヴォーカルを織り交ぜたメリハリのある選曲で進行。第二部になるとハワイアン・リゾート衣装と映像から一変し、都会(ニューヨーク?)の古いジャズ・ハウスをイメージしたような映像と、それにふさわしい白い衣装(女性の衣装はちょっとレトロな衣装)で演奏が繰り広げられていきます。随所に手拍子を求める曲を織り交ぜ、観客とともに楽しい雰囲気を創り上げていき、ビッグ・バンドの魅力そして生演奏の躍動感を堪能させてくれた2時間でした。
女性ヴォーカルによる歌が少し多くて、もうすこしビリー・ヴォーンならではのヒット曲、特に「真珠貝の歌」はやって欲しかったな、とも思ったのですが、最近のヴォーカル曲が、打ち込みシンセの薄っぺらな伴奏かフル・オーケストラの迫力に任せた伴奏かの両極端に走る傾向が多い中、ブラス主体による音圧も高くノリノリな生演奏をバックに歌が披露されることの魅力を改めて気づかせてくれました。
そして、何より驚いたのが会場で発売しているCD/DVDの売れ行き。購入者はリチャードや3人の女性ヴォーカルが公演後にサインをしてくれるという触れ込みがもあり、100人近くは並んでいたと思います。昔、ルフェーヴルの2枚組ベスト盤LPが「10万枚限定プレス」と称して売られていたこともありましたが、今やその100分の1でも売れたらいい方というくらいCDが売れない時代と言われている一方で、実は売り方によってはこれだけ売れるのですね。市場ニーズはあったわけです。お客さまが次々とCDやDVDを手にしていく現場を見て、まだ何かできることがあるのではないか、そんな思いを感じました。
今回、日本ビクター(当時)でビリー・ヴォーンを担当され、自身が設立したドリーム21というレコード会社でもビリー・ヴォーンのCDを扱っている所さんといっしょにコンサートを楽しみました。久々のステージに感激し、ビリーの息子のリチャードと何年ぶりかの再開も果たし、満面の笑みを浮かべていた所さん。「ビリー・ヴォーンの曲のタイトルはほとんど僕がつけたんだよ。『峠の幌馬車』ってね、原題は"Wheels"って言うんだけど、直訳の『車輪』じゃおもしろくないから、"幌馬車"にして、そこに「峠の我が家」って曲あるよね。あれにヒントをもらって『峠の幌馬車』にしたんだ。」そんな話をしくれました。
いい音楽、いいステージは、人を幸せにします。

最後のマイ・ウエイ

2013年8月15日


「最後のマイ・ウエイ」観てきました。
観るまでは、息子さんがプロデュースしたというので、クロクロことクロード・フランソワは世界的な名曲「マイ・ウエイ」の作者で、フランスではこんなに先進的で偉大なアーティストだった…といったことをドキュメンタリー・タッチに描いていく内容かと思っていたのですが、さにあらず。どちらかと言うと彼の人間性、生き方の部分にスポットを当てた内容で、2時間以上の長さを感じない充実感に圧倒されてしまいました。
この映画のハイライトは2カ所あります。まずはシナトラの所属するレコード会社から届いた「マイ・ウエイ」のサンプル盤を聞きながら、自分の作品が憧れの歌手に取り上げられたことを、まぶたの裏で亡き父に「自分の進むべき道"My Way"が間違ってなかった、あなたも敬意を表していたフランク・シナトラが、あなたの息子が作った音楽を取り上げたんですよ。」と伝えに行くシーン。そしてもうひとつは、英語圏進出の第一弾としてロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで大観衆を前に英語で「マイ・ウエイ」を歌い、途中からフランス語の原詩に切り替えて歌い終わる場面です。
特に後者は、『几帳面な』『自分にも他人にも厳しい』『自分をどうプロモートするかということに全神経を注ぐ』『恋人としてしか見ていなかったフランス・ギャルがユーロヴィジョン・ソング・コンテストで1位を取ったとたんに即刻別れたくらいの、負けず嫌い』といった、それまで映画の中で描いてきたクロクロの生き方をポール・アンカが書いた"My Way"の英詞の中に二重写しさせ、最後にそれをクロクロの歌詞"Comme d'habitude"「いつものようにそれをずっと続けてきた…。(それが私の生きる道なのだ。)」と歌い継ぐ、全く違うことを歌った同じメロディの歌が初めてひとつのメッセージとして昇華された瞬間が描かれています。先の場面がクロクロから父にメッセージを伝えに行く場面であるならば、後の場面は、息子さんたちから偉大な父クロード・フランソワへのメッセージが込められているんですね。これには感動の涙が止まりませんでした。
一方で、あれだけの自信家でありながら、ホテルのフロントでシナトラがチェックアウトして出て行く姿を見かけつつも「私がマイ・ウエイの作者です」と声を掛けられなかった場面が出てきます。確かに、あのあわただしい場面で声をかけたとしても、シナトラにとっては見ず知らずの若者に対して半信半疑で「そうか、君か」で終わり、すぐに忘れ去られてしまったことでしょう。クロクロは、実は冷静で自分をきちんと客観視できていた人間だったのだ思います。
1977年にクロクロは英語で自分の作品をカヴァーしたアルバムを発表しましたが、個人的な感想を言わせていただくと、このアルバムに収録されている「マイ・ウエイ」は、残念ながらアレンジも平凡で歌い方も軽く、あまり魅力を感じることができませんでした。一方、同じ年に「コム・ダビテュード」の作者として名を連ねるジャック・ルヴォーが育てたミッシェル・サルドゥが「コム・ダビテュード」を素晴らしいオーケストレーションをバックに力強い歌唱でレコーディングし発表しています。この頃、ヨーロッパではアバによるきらびやかなサウンドが人気拡大途上にあったわけですが、もしクロクロが生きていたら、彼のサウンドはどう受け入れられどう変わっていったでしょうか。
いずれにせよ、彼の歌を聴いたり映像を観たりすることが何倍にも楽しくなりました。
これから、各地での上映が始まると思いますが、ぜひご覧になってください。

クロクロ

2013年7月14日


クロクロの伝記映画が公開される。仏題が"Cloclo"、邦題が「最後のマイ・ウエイ」。「最後」の意味、映画の詳細についてはこちらからどうぞ。
http://www.saigono-myway.jp/index.html
最近になって、Amazon.frでフランスのCDを手軽に購入できるようになり、またYOU-TUBEで"Claude François"で検索かけると、おびただしい数の映像に出会えるようになった。こうして、音でしか知らなかったフレンチ・ポップス・ファンは偉大だったクロクロが踊りながら歌う数多(あまた)の映像を見て、その先進性にふたたび驚愕することになる。日本のソニーもユニバーサルもこの映画公開を機にやっとベスト盤を発売することになった。遅すぎる。
この映画。クロクロがテレビに出演するシーンがあるが、そのシーンでオーケストラの指揮をしているのがジャン・ミシェル・ルフェーヴルであれば、なお良かったのだが…。

「死の舞踏」と「化石」と「ポール・モーリア」と

2013年5月22日

 今回のジャン・ジャック・ジュスタフレの来日公演で「死の舞踏」が演奏されました。この作品は、一度だけポール・モーリア・グランド・オーケストラの来日公演で演奏されたようですね。その演奏の原曲であるサン=サーンスの交響詩「死の舞踏」の主題部分は、後にサン=サーンス自身が作った「動物の謝肉祭」という曲集の中に入っている「化石」という曲にも使われました。
 「動物の謝肉祭」という曲をよくご存じでない方のために説明しますと、この作品集で一番有名なのはチェロで演奏される「白鳥」です。サン=サーンス自身も「この曲だけは出版していい」と言ったようですが、他の作品はかたくなに拒否したそうです。というのも「ピアニスト」という音楽家を皮肉った動物が出てきたり、「カメ」の歩みののろさを表現するため、あの有名なオッフェンバッハの「天国と地獄」のカンカンをゆっくりゆっくり演奏するなどしていて、全体としては余興的な、冗談音楽的な作品集だからです。(往々にしてプロコフィエフの「ピーターと狼」とセットでCD化されますが、全然違う音楽なんですね。)
 「化石」もその中の1曲です。「死の舞踏」以外に「きらきら星」「セヴィリアの理髪師」など知られた曲が散りばめられ、これら過去の作品を古びた化石として皮肉っているわけです。自分の作品である「死の舞踏」をメインにすえるあたりは、自分の作品も先輩の作品同様やがてそうなっていくであろうことを意識しているのでしょう。(実際に評判が悪く、既に忘れられつつあったようですね。)
 譜面に残された音楽を楽器で演奏する「再現芸術」というものがある一方で、ポール・モーリアのサウンドをベースにして新たな音楽を追究していこうとするジャン・ジャック・ジュスタフレ。ジャン・ジャックがポール・モーリアの音楽を化石にしたくない、という思いでこの曲を選んだ、というのは深読みしすぎでしょうか。